●竹田市は、大分県の西に位置し、東は県庁所在地大分市、西は熊本県と接しています。
国道57号線と中九州自動車道が、この地に物資を運ぶ命綱の道路となっており、国道沿いには地方にも関わらずスーパーマーケットが4店、ホームセンターが3店、ドラッグストア、その他衣料品店、電器店が並ぶ、不便さを感じさせない不思議なところです。
●その国道から車で10分〜30分の範囲に「明治地域」はあります。かつての小学校区です。
13の自治会があり、世帯は約300戸、約600人が住み、高齢化率は55%です。
地方が、どれほど人がいなくて困っているかを想像してもらうには、人口密度という数値でみてもらうのがわかりやすいかもしれません。
全国の「市」の中では、相当少ない1平方キロあたり40人。県内で1番密度の高い大分市で950人。首都圏の都市とは比べるべくもないですが、参考までに東京都「23区」の多くが、1万人とか2万人以上で超過密しています。
●今後、少しずつ地域の抱える問題を発信して行きます。どんなに人が減り・交通の便も悪く・病院が遠くてもなんとかして「ここで暮らしたい」のです。そんな田舎の魅力も少しずつご紹介できれば、きっとあなたも来てみたくなるはず。
もしかすると、実は「楽園」だったりするかもしれないから。
1. 竹田市中央公民館明治分館およびコミュニティひろばi-meiji事務局
我らが憩いのスペース、大画面ゲームも完備の集いの場です。各種会議やサークル活動にも利用しています。
2. 明治岡本石垣井路「農業遺産」
鬼田公民館から立石方面に300m程入ったトンネルの上にある明治岡本井路の石垣井路は、延長240mで高さが3.5m~5.5mの石垣を積み上げた水路である。石垣の水路はあちこちで見られるがこれほど大規模なものは珍しく平成8年に県の登録有形文化財に指定されました。明治45年の開通時この場所は箱樋(板で作ったとい)であったが水漏れや腐食などに悩まされた明治岡本耕地整理組合が大正10 年代に建造したものである。石は枝の和田さん宅で切り出し、馬の背に乗せられて運ばれたようである。石垣の上の水路は現在コンクリートとなっているが当初は石をしっくいで補強したものであった。「国土の歴史的景観に寄与している」という事で文化財に指定されたが、この水路のおかげで明治や岡本の耕地を潤し、多くの住民がその恩恵を受けた事を忘れてはならない。
3. 殉空の碑
終戦間近の昭和20年5月5日。アメリカのB29による連日の本土空襲の折、日本の戦闘機紫電改がB29に体当たりを敢行、日本の戦闘機は竹田市内の宮城地域に墜落し、B29は当地に墜落しました。その際11名のアメリカ兵がパラシュートで脱出(熊本県側に7名:内3名捕虜・2名地元民による惨殺・1名降下時事故死・1名自害、竹田市側に4名捕虜)、機長のみ取り調べのうえ帰国できましたが、6名は九州大学の生体解剖実験の犠牲となりました。本土決戦の数少ない痛ましい歴史的出来事です。日米の犠牲者への追悼と2度とこのような戦争を起こしてはならないという強い思いから地元の有志が整備しました。毎年慰霊祭を行い、内外からも数多く参拝に訪れています。
4. 竹田総合学院
竹田総合学院は、2014年4月より旧竹田中学校を活用し、県内外の創作作家に教室を工房として提供し、市民には身近に文化・芸術に触れることができる場所として開かれています。
5. 岡藩火薬製造所跡
竹田総合学院(旧竹田中学校)の脇に標柱があります。風化されてかすかに読めるほどですが「岡藩火薬製造所跡」と記されています。ここでは川の上流から引いた水路の水を利用した水車で原料の木炭や硫黄や硝石を砕いて粉にし大砲や鉄砲の玉などがつくられていました。以前は鉄砲鍛冶もあり江戸期戦術上の要所であったようです。大砲の発射演習には藩主が訪れ、大庄屋の大津家に於いて休憩をとった為、大津家には藩主専用の石段が残っており、またその上には御成門や家の中に御成りの間もあった。大津家の屋敷の下には大砲を格納する建物もあり、この大砲があった為、百姓一揆ではこの大津家を襲う事はなかったといわれている。(竹田市誌より)
6. 高平分水(明治地区に於ける西南の役「法師山と高平分水」)
1877年5月13日、延岡から北上した薩軍と熊本城攻略に失敗した薩軍(1800人)は竹田町に集結、岡藩の士族で結成された竹田報国隊(600人)も加え竹田の町を占拠し豊後攻略の拠点とした。それに対し官軍は5月19日より総攻撃を開始、約10日間にわたる激しい戦闘がなされた。小倉・中津方面から駆け付けた官軍本隊は赤岩方面から法師山を攻略し、竹田町に攻め込んだ。この時法師山にいた薩軍は連日の戦いの疲れから寝込んでいた為簡単に攻略された。また、熊本から駆け付けた官軍は阿蘇方面から竹田に攻め入る途中、騎牟礼城に陣取った薩軍に手間取ったが、高平分水から井路伝いに進軍し5月25日騎牟礼城を攻略その後竹田町内の薩軍に攻め込み29日竹田町は官軍により平定された。最も激しかったのは岡城に通じる鬼ヶ城・茶屋の辻あたりであった。この戦いで1,500戸の家屋が焼け213人が死亡した。
7. ひょうたん池
鬼田の古田邸前に広がるひょうたん池。ここは岡藩中川家の別業(別荘)跡です。残念ながら今は枯れていますが、当時は池に舟を浮かべ遊んでいたようです。古田家の歴史は古く信長・秀吉・家康に仕えた武将で漫画「へうげもの」(ひょうげもの)で有名な古田織部の末裔です。茶人としても有名な織部は家康に密通の疑いをかけられ5人の息子と共に切腹を命ぜられましたが、その娘「せん」が中川家の養女となり織部義弟と結ばれ、家老として仕えた事から古田家の血脈は岡藩で受け継がれました。後に中川秀政の孫、古田重宗が分家して明治維新後に岡城から殿町を経由して鬼田の別業に転居し今日に至っています。
現在の古田邸は中川久清(入山公)の建立した茶室兼母屋があったところで、そこから見えるひょうたん池が当時の面影を残しています。また、その横にある別業山頂付近では4世紀頃の箱型遺跡も見つかっています。